柳原白蓮と白蓮事件のまとめ

柳原白蓮と白蓮事件に関する情報をまとめてお届け致します!

柳原白蓮の生みの母「奥津りょう」と新見正興について

PR

奥津りょう

このページでは柳原白蓮の生みの母である「奥津りょう」と新見正興に関する情報を掲載しております。

以下、本ページの目次となります

  • 柳原白蓮の実の母は柳原初子ではなく奥津りょう
  • 奥津りょうの父親は幕府の外国奉行「新見正興」
  • 新見正興の死後に困窮する遺族達
  • 若くして亡くなった奥津りょう

PR

柳原白蓮の実の母は柳原初子ではなく奥津りょう

柳原白蓮の母親は伯爵「柳原前光」の正妻である初子でありますが、実は生母は初子ではなく「奥津りょう」という女性です。

柳原白蓮は1885年(明治18年)10月15日に柳原前光が柳原の本邸があった麻布桜田町から遠くない家に囲われていた柳橋の芸者「おりょう」との間に生まれた子供です。

柳原白蓮は生後7日目には生母である奥津りょうのもとから引き離され、初子の子供として育てられることになったのです。

奥津りょうの父親は幕府の外国奉行「新見正興」

新見正興

柳原白蓮の生母「奥津りょう」は柳橋の芸者ではありましたが、元々は武士の家系の出身であり、父は幕府の幕臣でもあり外国奉行でもあった新見正興でした。

新見正興は日米修好通称条約批准交換の遣米使節正使として1860年1月に6万両という大金を預かって、アメリカ軍艦ポーハタン号でアメリカに派遣された人物であります。

勝海舟や福沢諭吉、ジョン万次郎が乗り組んだ事で有名な感臨丸は正使「新見豊前守正興」が乗船したポータハン号が万が一の事故にあった時に備えて随伴した艦船だったのです。

新見正興は副使「村垣淡路守範正、監察「小栗上野守忠順以下の従臣70人余りを従えて、幕府最初の遣外使節という歴史的使命を帯びて太平洋を横断しました。

3月にはワイントンに入ってアメリカ大統領ブキャナンに謁見をし、4月には批准書を交換して無事大役を果たしたのでした。

しかし、新見正興らが結んだ通商条約が屈辱的条約であるとして国内では猛烈な攘夷の嵐が吹き荒れていたのでした。

そして、それから8年後、国内では王政復古の大号令が下り、その時、江戸城に大号令を伝えたのは勅使「柳原前光」でした。

つまり、柳原白蓮の実の父親が江戸城に王政復古の大号令を伝えた張本人であった訳です。

そして、江戸幕府が解体した後は、新見正興は帰農し、それから1年が経った後に48歳の若さで病気で無くなってしまいました。

新見正興の死後に困窮する遺族達

新見正興が亡くなった後、江戸幕府が崩壊して武士の権力も失われた時代も重なって、新見正興の遺族は苦しい生活を強いられることになりました。

そして、食べていくためには美男子で有名だった新見正興譲りの娘の美貌を売り物にするしか他に方法はなかったのです。

新見正興は3人の娘がいましたが、1人は北海道に嫁ぎ、そして、姉のえつとりょうは奥津という家の幼女となり、柳橋に出されることになります。

若くして亡くなった奥津りょう

奥津りょうは16歳の時に柳原前光に落籍され、18歳で柳原白蓮こと燁子を出産しました。

しかし、生後7日目には柳原白蓮こと燁子を手放し、柳原前光と正妻である初子に預けた後は病気がちになり、燁子の顔を見る事もかなわないまま、その短い生涯を閉じたのでした。

台東区谷中にある妙円寺の過去帳には明治21年10月7日に奥津りょうが21歳で亡くなったと記されているそうです。