柳原白蓮と白蓮事件のまとめ

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村岡花子と柳原白蓮の関係

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村岡花子

このページでは村岡花子と柳原白蓮との関係についてご紹介して行きます。

以下、本ページの目次となります

  • 村岡花子ってどんな人?
  • 村岡花子が柳原白蓮に与えた影響
  • 柳原白蓮が村岡花子に与えた影響
  • 一度は絶好に至った2人の関係

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村岡花子ってどんな人?

村岡花子は文学作品「赤毛のアン」の翻訳者として有名な方です。

赤毛のアンの原作はカナダの女性作家ルーシー・モード・モンゴメリによる「アン・オブ・グリーン・ガイブルズ」です。

村岡花子は東洋英和女学校に柳原白蓮(燁子)と同じ時期に通っておりましたが、東洋英和女学校の宣教師「ミス・ショー」が第2次世界大戦の勃発によって日本を追われることになった後、赤毛のアンの原作を村岡花子に友情の証しとして贈ったのでした。

村岡花子(旧姓:安中はな)は1903年(明治36年)10歳の時に東洋英和女学校の門をくぐりました。

村岡花子の父である安中逸平はクリスチャンであり社会主義運動に関わりが深い人物で、安中家は父「逸平」が社会主義運動に明け暮れていたため家庭は貧しく、村岡花子は東洋英和女学校に給費生として10歳の時に入学していました。

柳原白蓮は23歳の時に東洋英和女学校に入学をしましたが、柳原白蓮よりも8歳年が離れた当時15歳の村岡花子は既に卓越した語学力を備えており学校内でも一目置かれる存在であったようです。

また、その時には既に学校内のあらゆる蔵書を読破していたそうです。

さて、村岡花子は給費生であったことで給費生に課せられていた多くの義務をこなす必要がありました。

その給費生に与えられていた義務の一つが日曜礼拝が始まる前に学校が運営していた麻布十番にある孤児院「永坂孤女院」での社会奉仕活動でした。

村岡花子は得意な読書を活かして、生徒達に物語を語り聞かせる役をつとめていましたようです。

村岡花子が柳原白蓮に与えた影響

柳原白蓮が東洋英和女学校に入学して以降、彼女は8歳年下の村岡花子を大変可愛がっていたそうです。

また、村岡花子も借りて来た原書を得意の語学力を活かして日本語に翻訳し、柳原白蓮に捧げることを喜びとしていたとのことで、それによって柳原白蓮は海外の文学作品にも触れることになっていたのでしょう。

そして、先に述べた通り、村岡花子は給費生ということで、日曜礼拝が始まる前に「永坂孤女院」にて社会奉仕活動を行なっておりました。

柳原白蓮も村岡花子らのそういった社会奉仕活動に興味を持ち、実際に日曜学校に出向いてみたことがあるようです。

ただし、柳原白蓮は兄嫁である柳原花子に貧困街に出歩く事を良くないこととされ禁止されてしまいます。

柳原白蓮が村岡花子に与えた影響

柳原白蓮には和歌や古典の深い教養があったため、村岡花子は柳原白蓮を尊敬しており影響を受けていたようです。

柳原白蓮は当時、短歌の竹柏会に通っていましたが、村岡花子も一緒に通う事になります。

そして、佐佐木信綱から指導を受けることになる訳ですが、佐佐木信綱は短歌だけではなく森鴎外が翻訳したアンデルセンの「即興詩人」を読ませるという指導を行なっており、その森鴎外の訳した文章に村岡花子はすっかりと魅了されてしまったと言われています。

村岡花子はその後、まだ翻訳という仕事が世の中に浸透していない時代に先駆けて翻訳という分野で地位を確立し翻訳家として活躍して行きますが、彼女の翻訳家としてのキャリア形成には柳原白蓮との出会いが関係していたといっても過言ではないかもしれません。

一度は絶好に至った2人の関係

実は村岡花子は一度、柳原白蓮に対して絶好を宣言していたこともあるようです。

柳原白蓮は村岡花子と出会った頃には既に最初の旦那であった北小路資武とも離婚済みであり、また、北小路家には北小路資武との間に生まれた息子「功光」を残していた訳です。

そういった内情を柳原白蓮は村岡花子に伝えたことは無かったのですが、それが白蓮事件の際に新聞で柳原白蓮の過去まで大体的に報道されたことで、純粋なクリスチャンである村岡花子は大きなショックを受け、柳原白蓮に対して絶好を宣言していたようです。

しかし、その後、二人は友情を取り戻し、白蓮事件の時にも村岡花子や陰で柳原白蓮を支えていたことが分かっています。