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柳原白蓮と白蓮事件のまとめ

柳原白蓮と白蓮事件に関する情報をまとめてお届け致します!

柳原白蓮の1人目の夫「北小路資武」との関係

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このページでは柳原白蓮の1人目の夫である「北小路資武」についてご紹介して行きます。

以下、本ページの目次となります

  • 北小路資武の父「北小路随光」
  • 北小路家の養女となった柳原白蓮について
  • 北小路資武はどんな人物だったのか?
  • 北小路資武と柳原白蓮の結婚
  • 北小路資武との結婚以後
  • 北小路資武との離婚

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北小路資武の父「北小路随光」

まずは、北小路資武の説明の前に北小路資武の父親である「北小路随光」について触れておきたいと思います。

柳原白蓮と北小路資武は1900年(明治33年)8月に柳原白蓮がもうすぐ15歳になろうとしている頃に結婚をしましたが、柳原家と北小路家は遠縁の関係にあります。

元々は北小路随光の住まいと柳原家の住まいは地所続きに門を構えており、北小路家が京都へ引っ越すまでは両家は近接して暮らしておりました。

北小路家は公家家族であり子爵でありましたが経済的には決して豊かであるとは言えませんでした。

北小路の当主である「北小路随光」は孝明天皇の稚児として御所に仕えており15歳までは孝明天皇に寵愛を受けていた人だったようです。

北小路随光の妻「久子」は讃岐の白鳥神社の娘であり国学に堪能な才女だったとのこと。

二人の間には3人の子供がいましたが、全員、早く亡くなってしまったため、柳原前光の弟である柳原資秀が養子になることが決まっていました。

しかし、北小路随光には腰元に生ませた資武がおり里子先から帰って来るということで、用意しとして決まっていた柳原資秀は身を引く事になります。

そして、逆に北小路資武と年齢が釣り合う柳原白蓮(燁子)が北小路家の養女として貰われることになったのです。

しかも、柳原白蓮には北小路資武といずれ結婚させるという約束が裏であったことは知らされずに。

北小路家の養女となった柳原白蓮について

北小路随光は和歌をはじめとする教養教育に熱心な人でした。

しかし、柳原白蓮の関心は華族女学院への進学にありました。

ですが、北小路家は華族ではあるものの決して裕福な家庭ではなかったため、柳原白蓮の華族女学院に進学したいという要望を簡単には受け入れることは出来ませんでした。

それでも、柳原白蓮の気持ちに最終的には根負けをした北小路随光は徒歩で華族女学院に通学することを条件に、柳原白蓮の華族女学院への進学を認めたのでした。

柳原白蓮は勉強熱心で語学はフランス語を専攻しておりました。

学校では大好きな勉強が出来るため日々充実した毎日を送っていた柳原白蓮ですが、家に帰るとそこには頭を悩ませる悩みの種がありました。

それは北小路随光の息子である資武であり、柳原家と北小路家が柳原白蓮と結婚をさせようとしていた相手であります。

北小路資武はどんな人物だったのか?

北小路資武は柳原白蓮よりも7歳年上の青年でした。

しかし、北小路資武は未だに中学校を卒業出来ておらず、外では子供のように遊び、家の中では女中に手を出すような男だったようで、彼は知的障害を抱えていたとも言われています。

また、北小路資武は粗暴な振る舞いの多い大変嫉妬深い男でもあり、柳原白蓮が自分以外の男性と同席するだけで嫉妬し、時には鼻血が出るほど打ち据えることもあったといいます。

そんな北小路資武から柳原白蓮は一つ屋根の下と言えども極力居合わせないように逃げ回っては居たのですが、ある時、北小路資武が「妾の子の癖にしやがって」と怒声を浴びせた事があったそうです。

柳原白蓮は柳原初子が自分の生母だと思っていたので、自分が妾の子であることを、この時初めて知る事になり大変ショックを受けたという訳です。

この真相を知ったことによって、柳原白蓮は帰る場所を失ったような感覚を覚えたそうです。

ちなみに、北小路資武自身も北小路随光が腰元に生ませた子供であり、彼自身もまた妾の子であった訳です。

もちろん、そんなことを北小路資武自身は知る由もありません。

北小路資武と柳原白蓮の結婚

自分が妾の子と知ってショックを受けていた柳原白蓮ですが、柳原家の家範にある通り、家長の決定は絶対であったため、北小路資武のことがどんなに嫌いであっても北小路資武と結婚をせざるを得ませんでした。

北小路資武との結婚に嫌がる柳原白蓮には「平民の所にやってしまうぞ」という脅し文句が使われ、また、姉の信子が既に入江為守子爵に嫁いでいたため、柳原白蓮も北小路資武と結婚をすれば姉と同等の子爵夫人の立場になれたので、結局、柳原白蓮は渋々、北小路資武と結婚することになったのでした。

結婚が決まった後は、柳原白蓮が華族女学院に通う事はもはや無駄なこととされ、すぐに退学届が出されてしまったそうです。

そして、1900年(明治33年)8月に北小路の邸で質素な結婚式が挙げられ、翌年の4月23日には長男の功光を出産したのでした。

その時、柳原白蓮はまだ若干16歳だったのです。

北小路資武との結婚以後

北小路資武と結婚をし、長男の功光を産んだ柳原白蓮でしたが、その後、半年も経たないうちに東京から京都へ一家総出で引っ越しをする事になります。

その理由は、北小路随光の妻である久子が京都への引っ越しを提案したためでした。

久子は北小路随光との間に3人の子供を産んでおりましたが、いずれの子供も早世していたため、柳原白蓮が長男「功光」を出産以降、自分だけが北小路家で血が繋がっていない人間となってしまったことに心苦しさを感じていたようです。

そこで、久子は北小路家の縁の地でもあり、久子の姉妹も住んでいる京都へ移り住むことを提案し、そして、結局、功光が産まれた同年10月には京都へ一家総出で引っ越すことになったのです。

友人が全く京都にはいない柳原白蓮にとっては孤独が深まり、また、久子の功光への溺愛にもはや自分が子育てに手を出すことさえも出来ない状態になってしまったようです。

更に、北小路資武との仲は相変わらずで、夫へ愛情を持つ事も出来ず、子供は義母に取り上げられ、当時の柳原白蓮は行き場を失い、辛い日々を送る毎日でした。

北小路資武との離婚

結局、柳原白蓮はそんな状態に耐えられなくなり、姉の信子にひたすら東京へ戻りたいという想いを訴え続けたのでした。

その結果、そのことは柳原家の知るところとなって、母の柳原初子が京都へ出向いて来て、話し合いが持たれたのでした。

その話し合いによって、柳原白蓮は一旦、東京へ里帰りすることに決まり、また、東京で行なわれた話し合いの席では、柳原白蓮の兄があっさりと離婚を承認してくれ、その後、正式なやり取りが行なわれ、柳原白蓮と北小路資武の離婚は決定したのでした。

ただし、長男の功光は北小路家に引き取られることが離婚の条件となり、柳原白蓮は功光を北小路家に残して東京の柳原家に戻って行ったのでした。