柳原家範の内容とは?
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このページでは柳原家の家範(家憲)である「柳原家範」について、以下の内容を掲載しております。
- 柳原家範の内容
- 柳原家範全十条
- そもそも家範が作られた理由とは?
- 華族令とは?
- 明治20年代に家範制定が集中した理由
柳原白蓮は人生で3度の結婚をしております。
しかし、最後の結婚相手である宮崎龍介を除いては、一人目の北小路資武も二人目の伊藤伝右衛門も自らの意思で結婚をした訳ではなく、柳原家範に従って、結婚することに応じたに過ぎなかったのです。
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柳原家範の内容
家範とは簡単に言えば、その家独自の規律を定めたものです。
柳原家の家範は柳原白蓮の兄「義光」の添え状によれば、亡父「柳原前光」が起稿した伊達家の範に則って相談人とともに「拙家に於いて重要なる事件相起り候節」のために作られたものとして説明されています。
柳原家範は全十条から成ります。
第一条には祖先の祭祀を厚くすること、そして、第二条には親族強調して家を保つことが定められています。
また、その後には家系の継承に最も重点が起これた内容が続くかたちとなっています。
以下は柳原家範の内容を書き起こしたものとなります。
柳原家範全十条
第一条 : 祖先ノ祭祀ツ慎重シ追遠ノ典禮ツ守ル可シ
第二条 : 宗親族ト協和シ永ク家慶ツ保ツ可シ
第三条 : 家督ヲ継承ス可キ者ハ嫡庶長幼ノ正序二依リ永ク男系二伝フ可シ
第四条 : 家督ヲ継承ス可キ者ノ妻ハ華族ヨリ娶ル可シ
第五条 : 家主旅行ノ間ハ宗親族中(続きがあります)
※手元の資料で確認出来たのは第5条の途中までです。現在、鹿児島市民図書館に電子保存されている資料を取り寄せておりますので、届き次第、その写真と残りの家範も掲載致します。
そもそも家範が作られた理由とは?
家範は明治20年代になると名門華族の間で集中的に制定されておりました。
柳原伯爵家以外にも島津侯爵家、伊達侯爵家、松浦伯爵家、内藤子爵家などと相次いで明治20年代に それぞれの家範の制定が集中したのです。
その背景としては1884年(明治17年)に制定された「華族令」が関係しているようです。
華族令とは?
華族制度は版籍奉還と同じ明治2年6月17日(1869年7月25日)に制度取調局の局長伊藤博文を中心に制定されたものです。
版籍奉還で領主権を失った大名と王政復古でこれまでの特権を失った公卿に様々な特権を与える優遇処置として、華族制度は始まりました。また、明治維新の功績者も華族の仲間入りを果たしました。
しかし、これだけでは前代の既得権益者が失った特権を別の新たな特権と交換しただけに過ぎません。
そこで、明治維新以降、近代の天皇制の地盤が固まり次第、皇室を囲む新しい貴族制度へと改革する為に、その一環として公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の5つの爵に分けるという爵単位の華族制度が定められることになりました。
この華族令の制定によって、華族となった者達は「皇室を守護するもの」という立場であり、華族の最大の義務は皇室及び国家に忠誠を誓うこととして明確に定められたのです。
明治20年代に家範制定が集中した理由
華族には特権も多かったですが、その代わりに守るべき義務も多かったのです。
課された義務に違反した者はその礼遇が停止されることを厳しく定められていたため、この時期に名門華族において家範の制定が集中した理由としては、一族が団結して、不届きな親族が出ないようにするための対応策であったという訳です。
そして、この家範は家単位の約束事であるにもかかわらず、家範の制定に当っても、変更に当っても、宮内大臣の許可が必要となっており、実質、法規としての規制力を持っているものだったのです。