柳原白蓮が通った東洋英和女学校について
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このページでは柳原白蓮が通い、そして、卒業をしたとされる東洋英和女学校についての情報を掲載しております。
以下、本ページの目次となります。
- 柳原白蓮が東洋英和女学校に入った経緯
- 東洋英和女学校の設立について
- 柳原白蓮が在籍していた当時の東洋英和女学校について
- 「花子とアン」で有名な「村岡花子」の展示会も開催
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柳原白蓮が東洋英和女学校に入った経緯
柳原白蓮は1908年(明治41年)、彼女が23歳の時に東洋英和女学校に編入学をし寮生活を送りました。
柳原白蓮の兄である柳原義光の妻「花子」のかつての家庭教師が同校の卒業生でありました。
そのため、白蓮が一人目の夫「北小路資武」と離婚をし、柳原家に出戻りした後、柳原義光と妻「花子」が白蓮の身の振り方について、その方に相談をした際に、推薦されたのが東洋英和女学校だった訳です。
これがきっかけで、幼い頃から学校への強い憧れを抱いていた白蓮は東洋英和女学校の門をくぐることになったのです。
東洋英和女学校の設立について
東洋英和女学校は1881年に正式に組織された「カナダ・メソジスト教会婦人伝道会社」によって行われました。
カナダ・メソジスト教会婦人伝道会社が日本に派遣した最初の婦人宣教師は「マーサ・J・ カートメル」という人物でした。
そして、1883年に来日していたカナダ・メソジスト・ミッションの宣教師として来日していた宣教師のカックラン博士と医療宣教師マクドナルド博士は麻布に男子学校のために土地の購入を決定しましたが、その一部を「カナダ・メソジスト教会婦人伝道会社」の学校経営に譲るという提案を「マーサ・J・ カートメル」に行い、その結果、「マーサ・J・ カートメル」は東洋英和女学校の設立を1884年にすることになります。
東洋英和女学校は西洋人教師によるキリスト教精神にのっとった教育、欧米の新しい文化や学問が学べる場、そして、英語教育で知られた大変、人気の学校で授業料が高額であったのにも関わらず、多くの入学者を集めておりました。
柳原白蓮が在籍していた当時の東洋英和女学校について
東洋英和女学校の校門は麻布の丘の上にありましたが、その坂を緩やかに降りた先に木造四階建ての校舎と寄宿舎がありました。
寄宿舎とは一種の共同住宅のようなものです。
東洋英和女学校の通学路の鳥居坂には当時、赤煉瓦で囲われた邸宅が立ち並んでいました。
また、桜並木にガス灯がともる街路には貴婦人たちを乗せた人力車がよく通り過ぎていたようです。
その辺り一帯は宮家や華族の居住する場所であり、東洋英和女学校に通う学生の多くが実際、富裕層の娘たちでした。
柳原白蓮も東洋英和女学校に通っていた時期は寄宿舎で生活をしており、第一と第三金曜から土曜にかけては外出許可が出る日であったようです。
また、ミッションスクールであることから、日曜日は礼拝と祈りを捧げて静かに聖書を読むことが校則となっていました。
食事は寄宿舎に住む学生全員が一堂に集まって取っていたようです。
毎週火曜日の夕食は洋食が出る日であったようで、西洋文化の教育も行われていた東洋英和女学校ではナイフやフォークの使い方、また、テーブルマナーについても指導が厳しく行われていたそうです。
また、夏休みの時期になると、宣教師たちは軽井沢で過ごすものもおり、生徒の中で希望するものは一緒に軽井沢に連れて行ったそうです。
柳原白蓮も夏休みには他の女学生らと軽井沢に行き、一緒に借りた共同の一軒家で青春を満喫されていたとのことです。
「花子とアン」で有名な「村岡花子」の展示会も開催
東洋英和女学院では学院史料展示コーナーにて2014年9月末まで「村岡花子」さんの展示会を行っているようです。
2014年3月末から放送が始まったNHKの朝ドラ「花子とアン」で一躍話題となった「村岡花子さん」ですが、彼女は東洋英和女学校の卒業生であり、また、同窓会副会長を約20年間務めていた人物でもあります。
そんな村岡花子さんが東洋英和女学院(東洋英和女学校)の機関紙に機関した文書や、村岡花子さんのインタビュー、また、他では見ることが出来ない資料を展示会では手にとって見ることが出来るようです。
以下、展示会の詳細となりますので気になる方は見学に行かれてみてはいかがでしょうか?
展示会開催期間 : 2014年9月末まで
休館日 : 8月7日〜13日
開催時間 : 日曜、祝日を除く午前9時から午後8時まで(土曜日は午後7時まで)
お問い合わせ先:03-3583-3166(法人事務局史料室)