柳原白蓮の2人目の夫「伊藤伝右衛門」について
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このページでは柳原白蓮の2人目の夫である伊藤伝右衛門について解説して行きます。
以下、このページの目次となります。
- 伊藤伝右衛門の生い立ち
- 西南戦争に参加した伊藤伝右衛門
- 伊藤家が炭鉱業を始めたきっかけと炭鉱事業の成功
- 伊藤伝右衛門の独立後の成功
- 伊藤伝右衛門の数々の功績
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伊藤伝右衛門の生い立ち
伊藤伝右衛門は桜田門外の変があった1860年の生まれです。
父は伊藤伝六、母は伊藤ヨシであり、二人の長男として穂波郡大谷村幸袋に生まれました。
伊藤伝右衛門の父伝六の職業は目明し(岡っ引き)であり、その職業柄、伊藤家には小博徒や小泥棒も出入りすることがあったようです。
伊藤伝右衛門の生まれた家は貧しく、中野紫葉「伊藤伝右衛門翁伝」には以下の文面が記されています。
僅かばかりの白米をもって朝粥を作り、その上汁を一家寄つて吸つては腹を満たし、昼は更に、その上に水を混じて、同じく上汁のみを吸ひ、夜も同じく水を注ぎ、漸く全部の米を分かちて食す
このような貧しい家庭に生まれた伊藤伝右衛門ですが、彼は八歳の時に母親を亡くしています。
そして、その後は伊藤伝右衛門は親類に預けられて、そこの田畑を手伝ったり、呉服商に奉行に出たりし、寺子屋にも通わずに子供時代を過ごしました。
そして、実家に帰ってきたのは伊藤伝右衛門が14歳の時でした。
当時、父親の伊藤伝六は鮮魚問屋を始めており、その仕事を手伝うために伊藤伝右衛門は実家に戻って来たのです。
そして、父の仕事を手伝う傍ら、伊藤伝右衛門は家計を助けるためにも石炭の露天掘りも行ったり、幸袋から遠げを越えて八里も離れた沿岸に点在する漁村から水揚げされた魚を手に入れ、それらの魚を馬の背に乗せ幸袋に運んで戻り、魚を売っていたりしたのです。
西南戦争に参加した伊藤伝右衛門
1877年(明治10年)には西南戦争が起き、その時、九州の各県からは軍夫が徴収されました。
また、筑豊からも多くの炭鉱員が政府軍の従軍作業員として参加をしました。
その中には当事18歳であった伊藤伝右衛門もいたのです。
伊藤伝右衛門は弾運びというのは弾丸が入った箱を背中に背負って危険な戦場を走り回り、官軍部隊の一人ひとりに弾を渡すという危険な仕事でした。
当時、川舟船頭の日当は25銭でありましたが、弾運びの仕事は大変危険な仕事であったためか、その倍の50銭が日当で支払われていたそうです。
伊藤伝右衛門自身は政府軍に弾を供給する仕事をしておりましたが、内心では西郷軍に勝って欲しいと考えていたそうです。
伊藤家が炭鉱業を始めたきっかけと炭鉱事業の成功
伊藤伝右衛門が西南戦争から無事に生還した1年後、伊藤伝右衛門の父「伝六」と中野徳次郎がともに、松本潜に知遇を受けたことをきっかけに伊藤親子の炭鉱業はスタートしました。
松本潜とは福岡藩に石炭仕組法を献策して範の独占事業とした松本平内の家の養子です。
そして、その弟は後に「筑豊御三家」の一人となる安川敬一郎です。
この二人はどちらも明治維新後、誰でも石炭発掘が可能となった時代に起業した人物でした。
そして、伊藤伝右衛門の父「伝六」と一緒に松本潜の知遇を受けた中野徳次郎とは、伊藤伝右衛門とは竹馬の友であったようです。
中野徳次郎は石炭の目利きとして知られ、彼もやがて石炭王の仲間入りをし、衆議院議員や九州水力電機株式会社取締役などを歴任し、1913年(大正2年)には福岡市大名に建坪400坪の大御殿を建てるまでになった人物です。
さて、伊藤親子は相田炭鉱に隣接する伊岐須炭鉱を受け持って、それを松本潜と安川敬一郎の援助を受けて軌道に乗せていったのでした。
そして、1894年(明治27年))には日清戦争が始まりましたが、これをきっかけに石炭需要は急激に高まりました。
また、その後に予想されたロシア戦争のために政府が必要としたのが鉄の生産体制でしたが、1901年(明治34年)に安川敬一郎たちの誘致が成功して、大規模な官営製鉄所が八幡村に設立されたのでした。
製鉄を行う上で必要となってくるのが良質の石炭な訳ですが、検査の結果、最終的に選ばれたのが、松本潜が経営する高雄炭鉱の石炭と、それに隣接する潤野炭鉱の石炭だったのです。
松本潜が経営する高雄炭鉱は政府によって当事の130万円で買収をされることになりましたが、松本潜はこれまでの中野徳次郎と伊藤伝六の功績を報いて、その買収によって手に入れた金額の大半を分け与えたのでした。
伊藤伝右衛門の独立後の成功
伊藤伝六、松本潜が亡くなった後、伊藤伝右衛門は自然の流れで独立することになります。
伊藤伝右衛門には父「伝六」が松本潜が高雄炭鉱を政府に売却した際に譲り受けていた豊富な資金がありました。
中野徳次郎という有能な共同経営者もついておりました。
また、時代の後押しも受け、筑豊は明治維新以降、絶頂期を迎えようとしていたこともあり、伊藤伝右衛門はこの勢いに乗るように炭鉱開発に次々と成功していくのでした。
中でも1906年(明治39年)に開発した中鶴炭鉱は質と量とともに優秀で伊藤伝右衛門の大成功となったのです。
そして、伊藤伝右衛門は炭鉱業での成功だけではなく、伊藤伝右衛門は衆議院議員、嘉穂銀行取締役、第十七銀行取締役と次々と就任して行ったのでした。
また、高騰する石炭需要に対応するために1914年(大正3年)には中央大手の古河鉱業と手を組んで大正鉱業株式会社を設立し、伊藤伝右衛門はその会社の社長に就任したのでした。
柳原白蓮と伊藤伝右衛門が結婚をしたのは、1911年(明治44年)でしたが、まさに伊藤伝右衛門が破竹の勢いで経済的成功を収めていった時代であったのです。
幸袋工作所の成功
伊藤伝右衛門は炭鉱業の他にも工作所の経営でも大きな成功を収めています。
伊藤伝右衛門は幸袋工作所の所長に葛西徳一郎という東京高等工学校から機械科の助教授を務めた男を迎え、やがて幸袋工作所は筑豊唯一とも言えるほどの高度な技術を誇るに至りました。
幸袋工作所は博覧会、共進会で次々と最高位を獲得し、第二次世界大戦まで工作所の収益は増大し、鉱山用機械を中心に台湾、満州、朝鮮にまで販路を伸ばす優良企業となったのでした。
伊藤伝右衛門の数々の功績
- 一人の殉職者も出さない保安優良炭鉱「宝珠山炭鉱」
- 公害という言葉がまだ生まれていない時代に、浄化装置の設置による洗炭汚水の除去
- 水害の多かった遠賀川の大改修工事
- 嘉穂郡立技芸女学校の設立
- 財団法人伊藤家育英会
- 幸袋職工学校の設立
- 幸袋尋常高等小学校講堂への寄付
- 図書館のような学校施設への寄付
- 宮地獄神社の社殿の寄付
- 太宰府天満宮参道の巨大な石の鳥居の寄付