柳原白蓮と白蓮事件のまとめ

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柳原白蓮の父親「柳原前光」について

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柳原前光

このページでは柳原白蓮の実の父親である「柳原前光」について解説しております。

以下、本ページの目次となります

  • 柳原白蓮の父親「柳原前光」の家柄について
  • 外交の第一線を歩んだ柳原前光
  • 柳原前光の妹「柳原愛子」について
  • 柳原前光の正妻「初子」について
  • 柳原前光の子供について
  • 柳原前光と奥津りょうとの間に出来た子供が柳原白蓮

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柳原白蓮の父親「柳原前光」の家柄について

柳原家はもともと藤原北家の支流日野家を祖に鎌倉末期に創設された家であり、柳原前光は遠く藤原氏を祖に持つ伯爵の位を授かった名門貴族の出身です。

柳原家は代々文筆の家柄であり、伝来の典籍類は「柳原家記録」として現在、その原典のほとんどは宮内庁書陵部と愛知県西尾市立図書館岩瀬文庫に所蔵されており、また、写本は東大史料編纂所に所蔵されております。

柳原前光は漢詩に堪能であり、七言絶句「上海客中作」が「明治文学全集」に再録されております。

外交の第一線を歩んだ柳原前光

柳原前光は18歳の時に東海道鎮撫副総督として江戸城に入り将軍徳川慶喜に王政復古の勅旨を伝えた人物です。

1871年(明治4年)には外務大丞として日清修好条規の締結に成功しました。

また、その後、中国や台湾に度々渡航をし、1874年(明治7年)年2月には全権大臣「大久保利通」を助けて台湾出兵問題の和平交渉にも当たりました。

1877年(明治10年)には西南戦争が起こった時、柳原前光は勅旨として軍艦を従えて鹿児島に出向いており、この時、前光が伝えた「西郷軍は反乱軍であり速やかに恭順すべし」という天皇の命令によって民衆は次第に西郷隆盛を離れていき、西郷軍は敗北に至ったのでした。

その後、1880年(明治13年)5月には露国駐箚特命全権大使として妻の初子と一緒にロシアに渡り、2年余りに渡って柳原夫妻はロシアに滞在しておりました。

そして、ロシア滞在中には帝政期の宮廷での華やかな社交生活を経験するとともに、フランスをはじめとするヨーロッパ各地にも遊びに行き西欧諸国の文化も体験したのです。

当時の日本のおいて西欧文化を体験したことのある人というのは、本当に極一部の人に限られていましたが、その一人が柳原前光であり、また、その妻の初子であったのです。

柳原前光の妹「柳原愛子」について

柳原前光には9歳年下の妹である「柳原愛子」がいます。

柳原愛子は元々は明治天皇に仕えていた人物ですが、明治天皇との間に2人の男の子と一人の女の子を生んでいます。

子供のうち二人は夭折しておりますが、1879年(明治12年)に誕生した嘉仁親王は無事に成人し、後の大正天皇となりました。

これにより柳原愛子は二位の局と称され、また、84歳で亡くなられた際には従一位を贈られ目黒の祐天寺に葬られました。

柳原前光の妹である柳原愛子は大正天皇の母という訳なのですが、これによって柳原前光の娘である柳原白蓮は大正天皇と従兄妹の関係にあることになります。

柳原前光の正妻「初子」について

柳原前光の正妻「初子」は伊達宗城の次女です。

伊達宗城は旧宇和島藩主であり明治17年より伯爵の位を授かっており、元々は木蝋生産の成功によって経済的な成功をおさめ、その財力を活かして早くから西欧の学問や軍事を率先して導入した大名として有名な方です。

柳原前光とは日清修好条規締結の時からの中であり、伊達宗城が日清修好条規締結の全権大使であった際に、柳原前光は外務大丞として随行員を務めていました。

このような縁があり、正妻の初子と柳原前光は後々、結婚することに繋がったようです。

また、先の述べた通り、初子は柳原前光とともにロシアに2年間滞在していたことがあります。

その際、ロシアだけではなくヨーロッパ各地の文化にも触れ体験をしていたため、帰国後、文明開化の象徴でもある鹿鳴館が開館した際には、当時、まだ、日本ではダンスが出来る人は極一部でしたが、柳原夫妻は踊る伯爵夫妻として鹿鳴館外交の華であったようです。

また、柳原白蓮の自伝小説「荊棘の実」の中では母「初子」の最新のファッションに身を包み、会話もダンスも外国使臣にひけをとらない社交ぶりが描かれております。

柳原前光の子供について

柳原前光には3人の子供がおります。

そのうちの二人は柳原前光の正妻「初子」の間に出来た子供で、長男の義光と長女の信子です。

そして、後の柳原白蓮となる次女の「燁子」は、柳原前光の初子との子供ではなく、柳原前光の妾である「奥津りょう」との間に出来た子供となります。

柳原前光と奥津りょうとの間に出来た子供が柳原白蓮

奥津りょうは柳原の芸者でしたが、柳原前光に16歳の時に落籍されており、そして、奥津りょうが18歳の時に柳原前光との子供として出産した子供が柳原白蓮となります。

奥津りょうは柳原白蓮が生まれて間もなく、柳原家に引き取られ実の娘とは離れば離れとなってしまいますが、その後、病気がちになった奥津りょうは21歳の時には亡くなったとされています。