伊藤伝右衛門の反論文3
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このページでは柳原白蓮が伊藤伝右衛門に向けて書いた絶縁状に対して、伊藤伝右衛門が大阪朝日新聞の記者「北尾」のインタビューに応じて始まった反論の連載3回目に掲載された反論文をご紹介致します。
※ ちなみに大阪朝日新聞への連載は伊藤伝右衛門からの申し出により、4回で打ち切りとなりました。
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反論文3 - 1921年(大正10年)10月26日
俺はお前のために、何事も善かれとこそ願へ、悪かれとは、少しも思はなかつた筈だ。
時々、家庭内に起こる黒雲はみなお前の生まれながらにして有つた反発的な世間知らずだから起つたのに過ぎない。
家庭といふものをまるで知らず、当然自分は貴族の娘として、尊敬されるものとのみ考へてゐたお前の単純さは、一平民から、血の汗を絞つて、やつと、今日迄の地位を得た人間、世間といふものを、知り過ぎてゐるほどの俺にとつては、叱つたり、諭したりしなければならなかつた。
それを叱れば、お前は、それが虐待だと云つて泣いた。
お前は最初、自分の歌集を出したいと云つて俺に頼んだ。
それには、出版の費用が要るからといふのだ。
其時、すぐ俺は出版費として、六百円やつた。
そして、始めて、お前の歌なるものが世に出た。
最初の「踏絵」といふ本のことだ。
良人に泣きついてやつと出して貰つた書籍の内容を、俺は今、此処に云ひたくない。
それから、漸くお前の文名が世の中に知れて来た。
良人として、ののしるられながら、呪はれながら、尚お前の好きなことだ。
お前が豪くなることだ。
さう思つてぢつとこらへたことは一度や二度ではない。
俺は、お前の好きな、文学に就いての仕事にはまるで無干渉であつた。
どれ丈け時間を費やそうと、どんなことをしやうと少しもかまはず放任主義をとつてゐた。
元より趣味が違ふのだから、干渉した処で解らう筈がないとも思つたからだ。
毎日、幾十本となくお前の処へ来る手紙の中には、随分寄付強請の甚しいものもあつた。
学校教育に幾千円を寄付して呉れの、今五百円あれば、女一人の一生を救ふことが出来るの、奥様のお力で生きたいのと、それは限りがなかつた。
お前は、少し、感情的に持ち込まれると、すぐ、同情し、すぐ賛成して泣いた。
そして、之等の、あらゆる、無心に悉く、応じたいといふ心持を持つた。
そんなことを一々取り上げてゐたら、伊藤家の財産が幾億万円あつても足りるものでない。
そのやうあ馬鹿なものに出してやらぬといふと、其場は兎も角、陰で無情だの、冷酷だのと云つて泣いた。
少し叱るとお前はすぐ頭痛がした。
風邪を引いた。
眩暈がした。
そしてしくしくと泣いては二日でも三日でも寝た。
一体お前には、俺に対してのみ、思ふことを、一杯に云つて終はない悪い癖があつた。
時には随分、勤めながら、恐れながら、まるで俺を別の人間としてゐた。
電話一ツかけるにもどこへ電話をかけるにも「燁子」であつた。
遠い九州へ来て、誰も、味方がなくては、将来いつまでも寂しからう、どうすれば、お前の心持を自分の家に、しつくり合うやふにすることが出来るかと、これには可なり、心を砕いた。
そして、お前に妹や、娘たちの養子を探させた。
お前の鑑識にかなつて、お前の味方となるやうな養子を入れたらよいと思つたからだ。
其結果、初枝(妹)には鉄五郎を、静子(娘)には秀三郎を、いづれも、お前が探して来て、俺はそれに、一もニもなく賛成して、家に入れることになつたのではないか。
お前の俺の家に於ける十年間の生活。
最初は兎も角も、今日では少しも不平がなく、全く満足しきつてゐるものと考へてゐた。
一箇月に五百円年に五千円までは小使いとして使つてよいといふことに許してあつた。
家内中はみな月給制度で現に俺の一箇年の入用もお前と同様月五百円迄と、定めてあることも、知つてゐる筈だ。
そして、其外にあの本がほしい。
短冊が買ひたい、誰とかに丸帯、誰とかに指輪、そんなことでいつも此金高を越した。
東京、京都、大阪を旅行する度毎にもお前は決して質素とは云へなかつた。
最近、丸篠さんと一緒に合作の屏風を書きたいといふことでそれにも尠からぬ金子を与へた筈だ。
此事にも虐待はしなかつた筈だ。
尚お前が寂しがるから、お前の入れた呉れといふ、女中は大概家へ入れた。
それには良家の娘で、男を拵へて、頼つて来たもの、家庭の不和から家を飛び出した若い妻君、そんなのがいつでも一人や二人ゐないことはなかつた。
それもみな、お前のヒステリーを起こさないためにつとめて、俺は、さういふことには極めて温順であつた。
死んだゆうの事も元を云へばお前の勧めから家へ入れることになつたのだ。