柳原白蓮の家系図まとめ
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このページでは柳原白蓮に関連する家系図をまとめてご紹介して行きます。
柳原白蓮は柳原家、北小路家、伊藤家、宮崎家と生涯渡り、結婚と離婚を繰り返しながら移って行きました。
そのため、それぞれの家での柳原白蓮の立ち位置を明らかにする家毎の家系図を掲載致します。
尚、家系図中の「燁子」が柳原白蓮となります。
以下、本ページの目次となります。
- 柳原家家系図
- 新見家系図
- 北小路家系図
- 伊藤家系図
- 宮崎家系図
- 補足 - 柳原白蓮と大正天皇との相関図
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柳原家家系図
こちらは柳原家の家系図となります。
柳原白蓮は柳原前光と奥津りょうの間に生まれた子供ですが、生後間もなく、生母の奥津りょうからは引き離され、柳原家で育てられることになりました。
柳原前光の妹「柳原愛子」は典侍として明治天皇に仕えていた人物ですが、明治天皇の子供を授かり、その子供が大正天皇となります。
新見家系図
こちらは新見家の家系図となります。
柳原白蓮は先ほどもお伝えした通り、柳原前光と柳橋の芸者であった「奥津りょう」との間に生まれた子供です。
奥津りょうの父「新見正興」は幕末の幕臣で、外国奉行として活躍していた人物です。
しかし、江戸幕府が解体した後、武家の力は弱まり新見正興は帰農しました。
それから1年が経った後に48歳の若さで病気で彼は亡くなります。
その後、奥津家に養子に出されたのが「ゑつ」と「りょう」でした。
北小路家系図
こちらは北小路家の家系図となります。
柳原白蓮が15歳の時に結婚したのが北小路家の北小路資武です。
北小路随光と妻の久子との間には3人の子供がいましたが、全員、早くに亡くなってしまったため、北小路随光が腰元に産ませた資武が嫡男となりました。
柳原白蓮と北小路資武は結婚した翌年に長男の功光を授かっております。
伊藤家系図
こちらは伊藤家の家系図となります。
伊藤伝右衛門は柳原白蓮の2人目の夫となります。
柳原白蓮が伊藤家に嫁いで来た時に驚いたのが伊藤伝右衛門の複雑な家族構成にあったと言われています。
伊藤伝右衛門には養子の金次と八郎の他にも、よその女性との間に出来た静子がおりました。
そして、伊藤伝右衛門は柳原白蓮と結婚した時には既に、過去の女性関係が災いして睾丸の手術を受けており生殖機能を失っていたため、柳原白蓮との間には子供を作っておりません。
伊藤伝右衛門には妹のキタがおりましたが、母の「ヨシ」は伊藤伝右衛門が七歳の時に亡くなり、また、父の伝六は病にかかっていたため、伊藤伝右衛門とキタはそれぞれ親類宅に預けられていました。
そして、妹のキタはそのまま預けられた先の養女となっており、その後、キタが結婚した日高波吉との間に出来た二人の子供が金次と八郎となります。
金次と八郎は伊藤伝右衛門の養子となった人物です。
宮崎家系図
こちらは宮崎家の家系図となります。
宮崎龍介は柳原白蓮が初めて自ら望んで結婚をした相手となります。
伊藤伝右衛門との10年間の結婚生活を捨てて、宮崎龍介と駆け落ちをした白蓮事件はあまりにも有名です。
家系図上での寅蔵という人物は孫文の盟友であった宮崎滔天のことです。
宮崎滔天は日本で中国革命の父とされる「孫文」らを支援して、辛亥革命を支えた革命家であり、今でも宮崎家の子孫は中国に国賓として招かれているようです。
補足 - 柳原白蓮と大正天皇との相関図
最後に柳原白蓮と大正天皇との関係を表す相関図を掲載致します。
このページで既にお伝えしていた通り、柳原前光の妹の愛子は明治天皇との間に子供を授かっており、その子供が大正天皇となります。
柳原白蓮と大正天皇は従兄妹の関係にあるという訳です。