柳原白蓮の生涯
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このページでは柳原白蓮の生涯に関する情報を時系列でまとめて掲載致します。
以下、本ページの目次となります。
- 柳原燁子の誕生
- 柳原家について
- 妾の子供として生まれた柳原燁子
- 里子時代
- 北小路家の養女時代
- 華族女学校への進学
- 北小路資武との仲
- 妾の子供であることを知る柳原燁子
- 北小路資武との結婚
- 京都時代
- 北小路資武との離婚
- 伊藤家の改革
- 白蓮の誕生
- 踏絵の出版
- 作成中
- 柳原白蓮の年表(編集中)
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1.柳原燁子の誕生
柳原白蓮こと柳原燁子は1885年(明治18年)に誕生しました。
柳原燁子の父「柳原前光」が女児誕生の知らせを受け取ったのは、鹿鳴館の夜会の席上でした。
文明開化の象徴である鹿鳴館にきらめく灯火の光にちなんで、柳原前光は生まれたばかりの女児を燁子と名づけたのでした。
柳原家について
柳原燁子の父「柳原前光」は遠く藤原氏を祖に持つ名門貴族で、十八歳の時に東海道鎮撫副総督として江戸城に入り、将軍徳川慶喜に王政復古の勅旨を伝えた人物です。
華族の中でも「伯爵」の位を持つ柳原家に生まれた柳原燁子は生まれながらにして華族の仲間入りとなったのです。
柳原前光と正妻「初子」の間には既に長男「義光」と長女「信子」がおりました。
また、柳原前光の8つ年下の妹「愛子」は明治天皇に仕えていた人物で、明治天皇との間に子供を授かり、その子供が後の大正天皇となったのです。
そのため、柳原燁子は大正天皇と従兄妹関係にあるということになるのです。
妾の子供として生まれた柳原燁子
実は、柳原燁子は柳原前光と正妻「初子」との間に出来た子供ではありません。
柳原燁子は父「前光」と柳橋の芸妓「奥津りょう」との間に生まれた子供です。
つまり、柳原燁子は妾の子供であった訳です。
奥津りょうを生母に持つ柳原燁子は生後間もなく、柳原家に引き取られ、柳原家に入籍をすることになります。
⇒ 【関連】柳原白蓮の生みの母「奥津りょう」と新見正興について
里子時代
柳原家に引き取られた柳原燁子は生後間もなく、品川で種物問屋を営む増山くにの家に里子として出されることになります。
当時、皇族や華族の間では幼児を里子に出すことが1つの子育ての慣習としてあったのです。
柳原燁子は6歳になるまで、里親の増山くにの家で育てられ、神社の大銀杏の周りで駆けまわったり、弁天池のメダカ釣りやミミズ探しにどろんこになって遊ぶような活発な女の子でした。
そして、6歳になると、柳原燁子は柳原家に戻され、身についた下町言葉の矯正を受け、麻布南山小学校に入学することになったのです。
北小路家の養女時代
柳原家に里子から戻ってから2年が経過した頃、柳原燁子は縁戚に当たる北小路家の養女となります。
北小路家は子爵の位を持つ華族ではありましたが、決して経済的に豊かな家ではありませんでした。
北小路家の当主「北小路随光」と妻の久子には子供が3人いましたが、いずれも早世していたため、北小路随光と正妻「久子」の間には実子がいませんでした。
しかし、北小路随光には腰元に産ませた資武という男の子がおり、ちょうど資武が里子先から帰ってくる時期であったため、柳原家と北小路家の間では年が割りと近い二人を結婚させると約束のもと、柳原燁子は北小路家の養女として引き取られることになっていたのでした。
華族女学校への進学
柳原燁子は華族女学校への進学を熱望しており、北小路の親たちも柳原燁子の気持ちに根負けして華族女学校への進学を認めることになりました。
しかし、北小路家は経済的に裕福ではなかったため、柳原燁子を毎日、車で通わせるといったことは出来ません。
そのため、柳原燁子を華族女学校へ進学させる条件として、徒歩で学校に通うことを約束させたのでした。
北小路資武との仲
北小路資武は柳原燁子より7歳年長でしたが、未だに中学校を卒業出来ない問題児でした。
北小路資武は大変嫉妬深く、柳原燁子が他の男と同席するだけで嫉妬し、時には鼻血が出るほどに打ち据えることもあったのでした。
そんな資武を柳原燁子は恐れ、嫌い、なるべく彼の近くにいないようにするのでした。
しかし、そんな二人の仲を心配に思った北小路の両親はなるべく早く、二人を結婚させてしまおうと考えたのです。
妾の子供であることを知る柳原燁子
ある時、北小路資武と柳原燁子との間に一悶着あった時に、資武は彰子に対して「なんだ、妾の子の癖しやがって」と怒声を浴びたことがありました。
彰子はてっきり自分が柳原初子の実子だと思っていましたが、そんな予期せぬ怒声を発した資武を「それだけは言うたらいけません」と必死に止める北小路久子を見て、自分の出生を知ることになります。
自分が初子の子供ではなかったことを知った彰子は、自分には帰る場所が無いのではないかという感覚に陥ったといいます。
北小路資武との結婚
北小路資武との結婚を嫌がる彰子でしたが、柳原家には他の華族にもあったように、絶対に従わなくてはならない家範がありました。
結婚に関しても家長の決定は絶対であることは柳原家範の中でも定められていることであり、彰子には承諾するしか選択肢は残されていなかったのです。
こうして資武との結婚が決まった燁子は直ぐに華族女学校への退学届けを提出させられることになり、1900年(明治33年)8月に北小路の家で質素な結婚式を挙げ、また、翌年の4月23日には長男の功光を出産することになったのです。
この時、燁子はまだ若干15歳でした。
京都時代
北小路資武と燁子の間に功光が生まれてからというもの、義母の久子に変化がありました。
北小路随光との間に出来た3人の子供は既に全員他界しており、実子を持たない久子は今となっては、唯一、他の北小路家の人間と血の繋がっていない人物となってしまったからです。
そのことを心苦しく思った久子は次第に様子がおかしくなり、生まれた孫の功光を抱こうともしなくなったのです。
しかし、ある時、久子は北小路のゆかりの土地でもあり、久子の姉妹も住んでいる京都へ、一家で引っ越すことを提案し、 それを受け入れた北小路随光は京都への移住を決めます。
京都に移ってからというもの、久子の機嫌は治り、今度は功光を溺愛し、燁子が子育てに参加出来ないほどになってしまうのでした。
子育てにも参加させてもらえず、やることも無くなった燁子はたまたま出会った華族女学校の同級生が裁縫の師匠の家に通っていることを知り、裁縫塾に燁子も通うことになります。
見知らぬ土地で友人もおらず、実の子供は義母に取り上げられ、また、相変わらず夫の資武とは仲が良くない燁子は裁縫塾で他の女学生らと交流している時だけ救われる気持ちになるのでした。
しかし、結局、そんな生活に耐えられなくなった燁子は姉の信子に東京へ戻りたいという想いを訴え続け、やがて、こうした事態は柳原家の知るところとなります。
北小路資武との離婚
一旦、東京へ里帰りをすることが決まった燁子でしたが、東京での話し合いの席で兄の義光が意外にもあっさりと離婚を承諾してくれたため、燁子は京都に戻り、正式な使者が北小路家に差し向けられ、正式に離婚が成立することになります。
ただし、資武との間に生まれた功光は北小路家に残すことを条件に、資武と燁子の離婚は決まったのでした。
京都での生活を精算して燁子が東京へ戻ったのは結婚から5年が経過した頃でした。
その時、燁子はまだ20歳でした。
幽閉生活
東京に戻ってからの燁子の生活は、母「初子」の厳しい監督下に置かれ、初子の隠居所邸内にある八畳と六畳の二間続きの部屋をあてがわれ、そこで幽閉生活を約4年間送ることになったのでした。
初子と言葉を交わすのも朝と晩の「ご機嫌よう」の挨拶程度。
また、兄の義光は年に二回、新年と中元の挨拶をするく程度でした。
姉の信子だけはたまに部屋に顔を出して燁子の様子を見に来てくれましたが、それでも、女中に黙っているように口止めをしてから部屋に入ってくるものだったのです。
出戻りの身である燁子はこうして外出も出来ず、ただただ、部屋に閉じこもった生活を送るばかりでしたが、姉の信子がいつしか、燁子の頼みを聞いて「枕草子」や「源氏物語」、「徒然草」などの古典や最新の小説を届けてくれるようになったのでした。
それからと言うもの、燁子は約四年の間、全く門の外に出ることもなく、ひたすら読書にふける毎日を送ったのでした。
燁子の家出
幽閉生活を送っていたある日、初子が珍しく燁子と一緒に何年ぶりかの外出をすることがありました。
しかし、外出先で待っていたのは次のお見合い相手だったのです。
私立大学を卒業したばかりで平民の出の男と見合いをさせられた燁子でしたが、その男の話す内容が新聞雑誌の受け売りばかりだとわかると、燁子はガッカリしてしまいます。
ですが、いつものように見合いの話は燁子の意向に関わりなく進められて行きます。
そして、ついには結納の日取りまでが決まってしまったのです。
耐え切れなくなった燁子は気づくと家出をし、里親であった品川の増山くにの家に向かっていたのでした。
しかし、燁子が幽閉中に里親であった増山くには亡くなっており、燁子が乳母と再会することは出来ませんでした。
家出をした燁子をかばってくれたのは姉の信子でした。
また、兄の義光は燁子の自殺を心配しており、結果的に燁子を自分達が住む邸に住まわせ、義光の嫁である花子が燁子の世話を引き受けることになったのです。
東洋英和女学校での生活
燁子は兄「義光」の妻の花子のかつての家庭教師であった人物から、東洋英和女学校への進学を進められ、燁子は小さい頃からの憧れであった女学校への再入学を果たします。
東洋英和女学校はミッションスクールであり、西洋人教師によるキリスト教精神にのっとった教育と、英語教育でよく知られた人気の学校でした。
燁子は東洋英和女学校の寄宿舎で寮生活を送るようになります。
村岡花子との出会い
「赤毛のアン」の翻訳者として知られる村岡花子と出会ったのも、燁子が東洋英和女学校に在籍している時でした。
燁子よりも八歳も年が下であるにも関わらず、村岡花子は既に学校内の蔵書を次々と読破しており、当時から卓越した語学力で周りの生徒からも一目置かれる存在でした。
そんな知的で可愛げのある村岡花子を燁子は大層可愛がり、二人は親睦を深めて行きます。
また、燁子が入門していた短歌の竹柏会に村岡花子と一緒に通うようにもなったのでした。
伊藤伝右衛門とのお見合い
燁子が東洋英和女学校を卒業すると、また、燁子は柳原家に戻るほかありませんでした。
また、肩身の狭い生活が待っていたのです。
しかし、ある日、兄「義光」の嫁の花子が燁子を美しく装わせて、義光の娘たちの動物園見物のお供にということで外出をしたことがありました。
しかし、それは単なる口実に過ぎず、実際に一行が辿り付いた先は上野動物園の途中にあった精養軒でのお見合いの席だったのでした。
その時のお見合いの席に居たお見合い相手が、後に燁子の2人目の結婚相手となる九州の炭鉱王「伊藤伝右衛門」だったのです。
結果的に燁子にはいつも通り、結婚を断るという選択肢もなく、伊藤家と柳原家、そして、仲人を務めた者達によって伊藤伝右衛門との結婚話は成立することになるのでした。
華族の出身である燁子と平民の出身から成り上がった伊藤伝右衛門との結婚は、当時の新聞や雑誌でも騒がれ、その時、報道された記事によれば、柳原家には結納として二万円が贈られ、また、仲人の得能と高田、そして、宮内省の主事小原詮吉氏他数名には謝儀金一万円が贈られたといいます。
結納金として柳原家に渡ったとされる二万円は現在の六千万円に相当し、仲人や宮内省へ渡った金額を含めれば、億単位のお金が動いていたことになるのです。
伊藤伝右衛門との結婚
兄「義光」の嫁である花子や仲人の得能は燁子を説得するために、伊藤伝右衛門には実子が居ないことや、年齢差の離れた夫は妻を大切にするといったこと、また、伊藤伝右衛門は女学校を設立していて、地元の教育にはお金を惜しまない人物であると燁子に言い聞かせていました。
また、燁子がその気になれば、伊藤伝右衛門が設立した女学校を燁子が経営することだって出来るという話をしたのです。
燁子は女学校の経営にとても興味を持ち、自分自身が卒業した東洋英和女学校のような場所に、伊藤伝右衛門の学校を育てることが出来たら、どれだけ素敵なことだろうと期待に胸を膨らませるようになったのでした。
そして、1911年(明治44年)2月22日に燁子と伊藤伝右衛門は東京の日比谷大神宮で婚儀を行い、夕刻からは帝国ホテルで豪華な披露宴を開いたのでした。
そして、その後は京都、奈良へとゆっくりと時間をかけた新婚旅行を経て、燁子は伊藤家の本邸がある福岡県嘉穂郡大谷村の幸袋に移り住むことになったのでした。
この時、伊藤伝右衛門は50歳、燁子は25歳でした。
知られざる真実
燁子が伊藤家に嫁いだ後、燁子は次々と予期せぬ真実を目の当たりにすることになります。
複雑な人間関係
まず、燁子が驚いたのは伊藤伝右衛門の複雑な家の人間関係でした。
実子がいないと聞かされていた燁子でしたが、伝右衛門に養子の金次がいることや、伊藤家に伝右衛門が外の女と作った「静子」がいること、また、伝右衛門の亡き父が晩年に外の女と作った「初枝」が伊藤家にいることを彼女は嫁ぐまで知らなかったのです。
また、既に養子縁組となっている金次の弟もいつか伊藤家の養子にしようと考えているというのです。
伝右衛門の女性関係
他にも燁子が伊藤家に嫁いでから直ぐに匿名で燁子宛に一通の手紙が届いたことがありました。
その手紙には伝右衛門の女性関係について暴露する内容が書かれており、女中頭サキとの関係や伝右衛門が芸者に少なくとも5人には手を付けていること、そして、天神の別邸につねという女性を囲っていることなどが書かれていたのです。
ちないに、天神の別邸に囲っていたつねという女性に関しては、伝右衛門は燁子と結婚するにあたって、お金で関係を精算しており、また、女中頭サキとも過去に関係を持っていただけで、燁子と結婚した後には密な関係は無かったといいます。
子供を作ることが出来ない伝右衛門
更に燁子を驚かせたのは、伝右衛門が外の女との間に出来た静子が生まれた後に睾丸の手術を受け、生殖機能を失っているということでした。
これによって、燁子は伝右衛門との間に子供を授かるという未来を絶たれ、実子を持つことが出来ない弱い立場に置かれた自分の将来を大層心配したのでした。
伊藤家の改革
燁子が伊藤家に嫁いでからは、燁子は伊藤家の家風の改革に取り組みました。
言葉遣いに関しては「おとっしゃん」「おっかしゃん」を「おとうさん」「おかあさん」に。
また、「あんしゃん」「あねしゃん」は「にいさん」「ねえさん」に。
そして、伊藤家では華族の家庭のように主人側と使用人側に明確な区切りがありませんでしたが、燁子はそこにも切り込んで行きました。
父母はじめ家族のことは「お上」で使用人は「お下」と言うように変わり、また、女中は父母が寝室に入ると正座して「おやすみあそばせ」と額を畳につくように下げるようになったのです。
また、「おはようさん」は「ご機嫌よう」に燁子によって変えさせられました。
そして、朝食はこれまで和食であったものが洋食に切り替わりました。
トースト、オートミール、紅茶、コーヒー、ハムエッグなどのパン食になったのです。
伊藤伝右衛門は胃が弱かったため、胃に優しいとされたパン食を好んで食べるようになったようです。
白蓮の誕生
1911年(明治44年)6月から燁子は白蓮という名前で歌を発表するようになります。
白蓮という名前は当時、燁子が信仰していた日蓮にちなんで白蓮という雅号が誕生したと言われています。
燁子は白蓮名義で1911年(明治44年)から白蓮事件が起きるまでの間、毎月、または隔月の間隔で「心の花」に常に10首以上の歌を寄稿していました。
また、代表歌人十人が代表歌を百首ずつ発表するという1913年(大正2年)1月号の「付録・短歌一千一百首」では、白蓮もその代表歌人の一人として選ばれ、百首の歌を発表していたのです。
白蓮の名義で発表された歌は一部の歌を除いては伊藤伝右衛門との結婚生活への不満や嘆き、悲しみなどを綴ったものでした。
また、中には夫以外への恋心を綴った歌も含まれているものでした。
踏絵の出版
1915年(大正4年)に白蓮は第一歌集「踏絵」を出版しました。
編集は燁子の師である佐佐木信綱が担当し、出版元は竹柏会。
巻頭には佐佐木信綱の序文が5ページに渡って掲載され、白蓮の短歌三百十九首が一ページに二首ずつ組まれているものでした。
「踏絵」の出版に際しては伊藤伝右衛門の金銭的援助がありましたが、「踏絵」には一切、「伊藤」の姓は登場していません。
※こちらのページは現在編集中です。本日中に完成予定です。少々お待ちくださいませ。
柳原白蓮の年表
西暦 | 元号 | 年齢 | 年譜 |
---|---|---|---|
1885 | 明治18 | 10月15日。伯爵柳原前光と柳橋の芸子「奥津りょう」との間に産まれる。生後間もなく柳原家に引き取られ柳原家の次女として入籍。また、生後間もなく品川で種物問屋を営む増山くにの家に里子に出さえれて育つ | |
1888 | 明治21 | 3歳| | 10月7日。生母の奥津りょう死去。 |
1892 | 明治25 | 7歳 | 柳原家に戻り、麻布南山小学校に入学 |
1894 | 明治27 | 9歳 | 子爵北小路家の養女となる。同年、実父「前光」が死去し、兄の義光が襲爵。 |
1895 | 明治28 | 10歳 | 養父の北小路随光より和歌の手ほどきを受ける |
1898 | 明治31 | 13歳 | 華族女学校に入学。 |
1900 | 明治33 | 15歳 | 北小路資武と結婚。華族女学校を2年で中退。 |
1901 | 明治34 | 16歳 | 4月23日に長男功光が誕生。同年10月に一家で京都に転居。裁縫を習う。 |
1905 | 明治38 | 20歳 | 北小路資武と離婚。義母「初子」の隠居所にて半幽閉生活を送る。縁談が持ち込まれて品川の里親の元へ家出する。 |
1908 | 明治41 | 23歳 | 東洋英和女学校に編入し寮生活を送る。村岡花子と出会い親交を深める。佐佐木信綱が主催する竹柏会に入門 |
1910 | 明治43 | 25歳 | 竹柏会の機関誌「心の花」に初めて短歌5首が柳原燁子の名前で掲載される |
1911 | 明治44 | 26歳 | 2月22日に東京日比谷大神宮で伊藤伝右衛門と挙式をあげる。京都、奈良などを旅行し3月末に福岡県嘉穂郡幸袋に住み始める。「まぼろしの花」で初めて白蓮の号を使用する |
1912 | 明治45(大正元年) | 27歳 | 「心の花」に明治天皇追悼歌2首を伊藤燁子として出詠。 |
※こちらのページは現在編集中です。本日中に完成予定です。少々お待ちくださいませ。