白蓮事件で柳原白蓮が書いた絶縁状 - 全文の内容
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このページでは柳原白蓮が伊藤伝右衛門に対し白蓮事件が起きた際に送りつけた絶縁状全文の内容を掲載しております。
実際に大阪朝日新聞紙上に掲載された絶縁状の内容と柳原白蓮自身が書いた絶縁状の内容は、新聞掲載時に宮崎龍介の友人が編集を行ったため若干異なります。
このページでは大阪朝日新聞紙上に掲載された絶縁状を最初に掲載し、そして、その後にオリジナルの柳原白蓮の絶縁状を掲載致します。
以下、本ページの目次となります。
- 大阪朝日新聞紙上に掲載された絶縁文
- 柳原白蓮自身が書いた伊藤伝右衛門への絶縁状
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大阪朝日新聞紙上に掲載された絶縁文
※ 文中、一部「_」となっている箇所は読み方が分からず書き起こせなかった箇所です。現在、読み方を調査中ですので少々お待ちくださいませ。
私は今あなたの妻として最後の手紙を差上げます。
今、私が此の手紙を差し上げるということはあなたに取って突然であるかも知れませぬが私としては当然の結果に外ならないので御座います。
あなたと私との結婚当初から今日までを回顧して私は今最善の理性と勇気との命ずる所に従ってこの道を執るに至ったので御座います。
ご承知の通り結婚当初からあなたと私との間には全く愛と理解とを欠いていました。
此の因習的な結婚に私が屈従したのは私の周囲の結婚に対する無理解と、そして私の弱小の結果でございました。
しかし私は愚かにもこの結婚を有意義ならしめ、出来得る限り愛と力とを此の内に見出して行きたいと期待し且つ努力しやうと決心しました。
私が儚い期待を抱いて東京から九州へ参りましてから今はモウ十年になりますが、其の間の私の生活は唯やる瀬ない涙を以て掩はれまして、私の期待は総て裏切られ、私の努力は総て水泡に帰しました。
貴方の家庭は私の全く予期しない複雑なものでありました。
私は_にくどくくどくは申しませぬが、貴方に仕へて居る多くの女性の中には貴方との間に単なる主従関係のみが存在するとは思はれないものもありました。
貴方の家庭で主婦の実権を全く他の女性に奪はれて居た事もありました。
それも貴方の御意思であった事は勿論です。
私は此意外な家庭の空気に驚いたものです。
斯う云う状態に於て貴方も私との間に真の愛や理解のありやう筈がありませぬ。
私が是等の事に就き_次漏らした不平や反抗に対して、貴方は或は離別するとか里方に預けるとか申されました。
実に冷酷な態度を執られた事をお忘れにはなりますまい。
又、可なり複雑な家庭が生む様々な出来事に対しても常に貴女の愛はなく、従って妻としての値を認められない。
私がどんなに頼り少く寂しい日を送ったかはよもやご承知なき筈はないと存じます。
私は折々我身の不幸を儚なむで死を考へた事もありました。
併し私は出来得る限り苦悩と憂愁とを仰へて今日まで参りました。
其の不遇なる運命を慰むるものは只歌と詩とのみでありました。
愛なき結婚が生んだ不遇と此の不遇から受けた痛手のために私の生涯は所詮暗い暮のうちに終わるものとあきらめたこともありました。
しかし幸にして私にはひとりの愛する人が与へられ、そして私はその愛によって今復活しやうとしておるのであります。
此の儘にしておいてはあなたに対して罪ならぬ罪を犯すことになることを怖れます。
最早今日は私の良心の命ずるままに不自然なる既住の生活を根本的に改造すべき時機に参りました。
依って、この手紙により私は金力を以って女性の人格的尊厳を無視するあなたに永久の袂別を告げます。
私は私の個性の自由と尊貴を守り、且つ、培ふ為に貴方の許を離れます。
永い間私をご養育くださった御配慮に対しては暑く御礼を申し上げます。
(二伸)
私の宝石類を書留郵便で返送致します。
衣類等は照山支配人への手紙に同封しました目録通り総て夫れ夫れ分け与えてくださいまし。
私の実印はお送り致しませんが、若し私の名義となって居るものがありましたら、その名義変更のためには何時でも捺印いたします。
二十一日
燁子
伊藤伝右衛門様
柳原白蓮自身が書いた伊藤伝右衛門への絶縁状
※原文のママ。ただし旧漢字は新時に改めております。新聞に記載されたのはこれをもとに宮崎龍介の友人が書き起こしたものでした。
伊藤主人へ
私ハ今貴方の妻として最後の手紙を差上げるのです。
今、私がこの手紙を上げるといふ事は突然であるかもしれませんが、私としてハ寧ろ当然の結果に他ならないのです。
或いは驚かれるでせうが、静かに、私のこれから申上げる事を一通りお聞き下さいましたなら、つまりは、私が貴方からして導かれついに今日に至ったものだといふ事もよく御解りになるだろうと存じます。
そもそも私と貴方との結婚当事からを顧みなぜ私がこの道をとるより外に致方がなかったかといふ事をよくお考へになって頂き度いとおもひます。
ご承知の通り、私が貴方の所へ嫁したのは、私にとっては不幸な最初の縁から離れて、やうやふ普通女としての道をも学び、此度こそは平和な家庭に本当の愛を受けて生き度いと願って居ました。
然るにたまたま縁あって貴方の所へ嫁すことに定まりました時、貴方は或ハ金力を信頼して来たかとでも思いだったか知りませんが、私としては、年こそは余りに隔てあるものの、それを却って此の身を大切にしてくださるに異ひハなく、学問のない方との事も聞いたれど、自分の愛と誠を以って及ばずながら、足りない所ハ補って貴方といふのを少しでも大きくして上げ度いと思って居りました。
私自身としては貴方との愛と力とを信頼して生きて行き度いと思って居ました。
言う迄もなく貴方はまず誰よりも強く自分を第一に愛していただけるものと信じて至ればこそです。
貴方はどのように待遇して下されたかということを思ひ出すとき、私は何時でも涙ぐむ斗りです。
誰一人知る人もない中に頼むは唯夫一人の情けでした。
家庭というものに対しても、足りないながらも主婦としての立場を思ひ、相当考へを持って来ました。
然るにその期待は全く裏切られて、そこにはすでに、私の入るより以前から居る女サキが殆ど主婦としての実権を握り、あまつさへ貴方とは普通の主従の関係とはどうしても思へぬ点がありました。
貴方が建設された富を背景としてのし社会奉仕の理想どころか、私はまずこの意外な家庭の空気に驚かされてしまいました。
ことある毎に常に貴方はサキの味方でした。
私ハ主人の妻でありながら我家で召し使ふ雇人一人を伺うすることも出来ませんでした。
(中略)
実は私といふ貴方の妻の価は一人の下女にすら及ばぬのでした。
(中略)
御別れに望んで、一言申し上げます。
とまれ十年の間、欠点の多いこの私を養ってくだされた御恩を謝します。
この手紙は今更貴方を責め様として長々しく書いたのではありませんが、長く胸に畳んでいる事を一通り申し述べて貴方の最後のご理解を願ふのです。
終わりに望んで、私の亡き後の御家庭ハ、却って平和であろうと存じます。
第一艶子殿の為にも幸であるべく、さすれば、貴方としても御心配が少なくなり、何事も私の愛する者は憎く私の嫌ひなものは可愛いといふふしぎ、貴方のその一番私に辛かった御心持ちも、私さえ居ずば、凡ての人々を明らかに善と悪とを見分けられる正しい御目を持つ事のお出来になるのが、家族の者のどんなにか幸福となることでせう。
女心というものは、真に愛しておやりなさりさへすれば、心から御慕ひ申す様になる事は必定。
何卒これからはもう少し女といふものを価つけてご覧なさる様、息子の為にも又貴方の御為にもお願ひ申して置きます。
伊藤伝右衛門様