公家社会の里親・里子の子育て慣習について
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このページでは公家社会の子育ての習慣の1つして存在していた、里親・里子の慣習について解説しております。
以下、本ページの目次となります
- 里子に出された柳原白蓮
- 妾の子供だから里子に出された訳ではない
- なぜ、里子に出す習慣があったのか?
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里子に出された柳原白蓮
柳原白蓮は生後間もなく生母「奥津りょう」の元を離れ、柳原前光と正妻「初子」の子供として柳原家に引き取られることになりました。
しかし、その後、すぐに品川で種物問屋を営む増山くにの家に里子に出されることになります。
そして、柳原白蓮は7歳の時まで里親の増山くにの家で育てられ、その後、柳原家に戻り麻布南山小学校に入学することになります。
妾の子供だから里子に出された訳ではない
柳原白蓮は生後間もなく増山くにの家に里子に出された訳ですが、これは柳原白蓮が柳原前光と柳橋の芸者であった「奥津りょう」との間に生まれた子供であったからではありません。
柳原前光と正妻「初子」の間に生まれた長男「義光」と長女「信子」もまた、杉並に在住する者の家に里子に出されております。
また、これは柳原家に限った話ではなく、大正天皇の皇后になった九条公爵家の節子も生後7日目に農家に里子に出されていたり、昭和天皇も枢密顧問官「川村中将」の自宅に里子に出されているなど、幼少の子供を里子に出すことは皇族や公家の間では子育ての1つの習慣として一般的であったようです。
里子に子供を出す習慣が無くなったのは、皇室の中においては今の皇太子からとなるようです。
なぜ、里子に出す習慣があったのか?
皇族や公家社会において子供を里子に幼少の時に出す理由には様々な理由があると言われているようです。
以下にその一例を挙げてみましょう。
- 乳を与えると妊娠しづらくなるため、里子に子供を出して乳母に子供を預けていた
- 次の子供を早く生めるように生まれた子供はすぐに里子に出して幼児の教育にかかる手間を省かせていた
- 皇族や貴族や沢山の側室を抱えていたため、一箇所で子供を沢山育てるのは困難であったので、生まれた子供は里子に出していた
- 健康的で逞しい子供を育てるために農家や庶民の家に里子に出させていた
このように様々な理由があると言われていますが、この中でも最も重要度の高いものが最後の子供を健康的で逞しく育てるためであると言えます。
というのも、今の時代と異なり、昔は子供が7歳に育つまでに幼いまま病気などで亡くなることが多かったのです。
明治天皇は男の子を5人、女の子を10人授かっていますが、その中で成人できたのは男の子1人、女の子4人のみです。
高貴な家庭ほど子供を過保護にしてしまったり、一般庶民や農家の子供のように暴れまわって遊ばせたりすることもなかったため、少食で体力もなく、病気にもかかりがちであったと言われています。
そのため、皇族や公家の中では生まれた子供を生まれた間もないうちに庶民や農家の家に里子に出すという子育て習慣が一般的であったのです。